人見知りというとなにかとネガティブなイメージが付きまとうものです。
コミュニケーションがうまくとれなかったことをいつまでも気にして、「いつ終わるんだよ!」という長い長い内省の時間。
結局納得できる答えなんて導き出せずに、ひたすら自分は「損な性格」「悲しい人生」と結論づける結末。
新しい一日が始まっても、考えていることは「いかに傷付かずに過ごせるか」ということに終始。
なにがツライかって、一番は「自己嫌悪」に陥ることなんですよね。
自分を嫌悪するって、自分が自分である限り一番避けて通りたい感情だったりしませんか?
誰だって自分が一番大事。一番好きなんです。
しかし、そんな自分を責めたり嫌悪したりするのは、なぜか一番大事に思っているはずの自分。
大いなる矛盾を感じてしまいますね。
今日は、これらの矛盾を紐解き、1つの解決案へと集約させていこうと思います。
もう少し「自分」をラクに生きていきたいと思っている人は、ぜひ最後まで目を通してみてください。
Contents
人見知り改善:認知の歪みを正していくことでだいぶラクになる
「私は人見知り」「私はコミュ障」「私は口下手」「私は引っ込み思案」「私は冷たい」「私は誰とも良好な関係を築けない」
少し前の私が心の内外問わず、ヒマさえあれば唱えていた言葉です。
なにか思い通りにならないことがあると、
「仕方ないよ、だって私はコミュ障だから。できなくて当たり前なんだ」
と半分自分をなぐさめ、あとの半分は理想通りにいかない自分の不甲斐なさに落ち込んでいました。
しかし、新しい土地に来て新しい友人関係を築くようになると、「これが当たり前」と思っていた自分の性質がただの勘違いなのでは?という思いを抱くようになりました。
あるとき、仲良くしてもらっている友人3人でランチをしたときのこと。
占い好きの1人の友人がこう言ってきたのです。
「調べてみたら、リリーちゃんは慈愛に満ちていて子供に慕われる運命みたいよ」
リリー
私は常々、自分は他人に不親切で冷たい人間と思われているのではないかと思っていたので、友人の口から出てきた「慈愛」という言葉には、正直面食らってしまいました。
しかし、私が否定するよりも先に、友人2人が
「当たってるね~~!リリーちゃんのイメージだぁ」
と言ってきたのです。
これがお世辞かどうかなんて考えている余裕は私にはありませんでした。
リリー
という驚きが先行し、2人の発言の意味を考えようにも頭の中がカオス状態。
ようやく冷静になったのは帰りの車の中でのことです。
それからは物事を難しく考えるクセが発動し、友人2人のなにげない一言を何日も考えるようになりました。
2人ともなんのためらいもなく言ってたよね。
さも納得したふうだったよね。
お世辞だったらもっとサラッとしたもんだよね。
え?っていうか、あの2人には私がそう映っていたってこと?
それからというもの、私の心の中には「慈愛」という言葉が居座り続けるようになりました。
なにげなく子供と接しているときでも、ふとした瞬間に、
「もしかして私のこういうところが2人の目には慈愛に満ちて映っているってことなのかな…?」
と思うようになったのです。
それまで私が自分自身に対して思っていた、
「感情を表に出さない」
「何を考えているのか分からない」
「冷たそうな母親」
という像が徐々に崩れていくのが分かりました。
この出来事は、30数年つねに私に付きまとっていた頑強な思考の歪みに疑問を差し挟んだと言っても決して言い過ぎではありません。
人見知りというレッテルを貼ることの虚しさ
私が30数年自分自身に対してやっていたことは、認知の歪みの「レッテル貼り」という行為でした。
【レッテル貼りとは?】
自分に対しても他人に対しても間違った人物像を作り出すことで、考察や可能性の幅を狭めてしまうこと。たとえば、親が「この子は恥ずかしがり屋だから」「引っ込み思案だから」ということをことあるごとに言っていると、それを聞いた子供が「自分は恥ずかしがり屋」「引っ込み思案」だと思い込んで、実際にその通りの人生を歩んでしまう。
「人見知り」「引っ込み思案」「口下手」「コミュ障」というレッテルは、ことあるごとに私の行動を制限してきました。
学生時代にはこれが度を超し、さらに「つまらない人間」「冷たい人間」というレッテルが追加されていました。
そのため、今の夫に交際を申し込まれたときも、
「こんなつまらない人間に声をかけてくるなんて、この人は不幸な人だ」
と本気で思っていたのです。
付き合いだして数年経って、もうお互いに知り尽くした仲になっても、私の悪い思い込みがなくなることはありませんでした。
なぜ夫が自分に親しみを感じてくれているのかが本当に不思議で、実際に尋ねていました。
「どうして私のような冷たい人間と付き合ってるの?私ぜんぜん優しくないのに。なにもあなたの得になるようなことないでしょ?」
そんな私を夫はあまり相手にせず、
「好きだから一緒にいるんでしょ」
の一言でいつも片付けていたので、私の疑問が解決することはありませんでした。
夫の立場で見れば、私を「冷たい」「優しくない」という認識はしていないので、質問の意味自体が謎だったのだと思います。
そんなこんなで結婚をして子供の母親になった現在。
私の認知の歪みは、友人たちのなにげない一言がきっかけとなって、徐々に改善されていきました。
「私が思っていた自分」と「みんなが思っている自分」の間にあった明らかな差。
今の私は、友人たちが与えてくれた新しいレッテルのおかげで、以前なんかとは比べものにならない穏やかな人生を過ごしています。
人見知りの呪縛が解けるきっかけ
ネガティブなレッテル貼りをしていたことに気付けたのは、おそらく私に友人たちの言葉を素直に受け取る余裕があったからというのもあるのでしょう。
以前の私なら、
「どうせお世辞に決まってる」
「私は慈愛なんかとは真逆の人間だもの!」
という頑なな考えにがんじがらめにされていたはずです。
思うに、この占い好きの友人が、知らず知らずのうちに私の強固な認知バイアスを解いていたのではないかと思うのです。
というのも、彼女は会うたびにやたらと私をほめるのです。
最初はなにか裏があるんじゃないかと失礼なことを考えていましたが、付き合いを続けていくにつれ、本当に純粋な気持ちで言っているのだということが分かりました。
世の中にはこんな人がいるんだなぁ…というのが私の率直な気持ちです。
「この人は私のことをまったく分かっていない」が「今日もなんか良いこと言ってもらえた。気分がいいわ、ルンルンルン」になるまでにはそう時間はかかりませんでした。
そして気が付くと、ちょっとずつ「人見知り」の自分はなりを潜め、「口下手」をネガティブに捉えていた自分もいなくなっていました。
こうして書いていると、悪いレッテル貼りの呪縛が解けるまでの期間の長さにゾッとさせられます。
しかも、私にはたまたま良き友人に恵まれたというきっかけがあった。
もし私が「人見知り」を理由にして新たな土地での交友関係をないがしろにしていたら…。
おそらく、今の私はいないでしょう。
「人見知りを直したい!」克服のカギは客観的視点を持つこと
コミュニケーションで失敗すると、ついつい「ダメな人間だ」と自分を追い込むような思考に陥りそうになりますが、そんなときこそ思いとどまり、少し離れたところから自分を見るようにしてみるといいです。
客観的な視点を持つのは意識しないとなかなか難しいですが、訓練のつもりで繰り返していると、いずれ習得できるようになります。
たとえば、
「あの人、今日は私に声をかけてくれなかった。また自分でも知らないうちに失礼なことをしちゃったのかな。怒っていたらどうしよう」
と思ってしまう自分に対して、
「状況をよく見て。ちょっと小走りじゃなかった?用事があって急いでいたのよ。そんなに心配なら明日自分からあいさつしてみればいいじゃない?そうと決まったら、あとは余計なことは考えず別のことをしましょ」
とポジティブな解決案を提案するのです。
小説や漫画でよく見る「天使」と「悪魔」が耳元でささやいている絵面とよく似ていますね。
なんなら、ちょっと想像力を働かせてポジティブ案を言ってくる「天使」を理想的な自分の顔にしてみるといいかもしれません。
「美人の私が良いこと言っている」
「さすが美人の私は気の利いた返しができてお見事」
このくらいの遊び心が持てるようになれば、人生はとても充実したものになりますよ。
劣等感の塊だった私が実践していて、実際に自己肯定感が強くなってきたのでとてもおすすめな方法です。
たくさん良いレッテルを貼り付けていきましょう!
まとめ
認知の歪みが原因でいつも及び腰だった私は、友人の言葉をきっかけとして少しずつ自己肯定感が持てるようになってきました。
けれど、私はたまたま運が良かっただけだと思っています。
今この瞬間も、幼少期から根付いた強固な認知バイアスにがんじがらめにされてつらい思いをしている人がいるのだと思うと、いたたまれない気持ちになります。
この記事があなたの新たな人生を始めるためのきっかけとなることを祈るばかりです。
ということで、まとめてみましょう。
【人見知りをなおしたいなら…】
- 「自分はこういう人間だ」という思い込みを一度疑ってみる
- たいていの場合、自分が思っている「自分」と他人が思っている「自分」の間には差があると心得る
- 悪いレッテル貼りが人生を苦しいものにしているので、意識的に良いレッテルを貼る努力をする
- つねに自分を客観的に見る視点を養う
リリー